神武皇帝名草戸畔を打ちし給へし処(紀伊国名所図会)
名草戸畔
(なぐさとべ)

参考文献『名草戸畔』古代紀国の女王伝説
なかひら まい著

その昔、縄文の時代約三千年前、名草山を囲む地域を地方の豪族(名草族)が支配していたと言い伝えられています。

ナグサトベとは、当地におよそ二千年前に存在したと思われる女性首長のことで『日本書紀』にひと言だけ、神武に殺されたと記されています。当地ではナグサトベの遺体を、頭、胴体、足の三つに分断し、三つの神社に埋めたという伝説もあります。三つの神社は現在の海南市にある宇賀部神社(オコベジンジャ)、杉尾神社、千草神社のことで、現存する神社であります。

名草山の周囲は昔、「阿備の七原(あびのななはら)」(安原、広原、吉原、松原、内原、柏原、境原)と呼ばれる湿地帯でした。そこに「名草姫・名草彦」の夫婦神を祀った「中言神社」が建っています。

かつて「中言神社」は、三葛、布引、黒江、吉原、冬野、朝日、中島、新中島、神前、和田、田尻、内原、船尾、毛見、秋月と十五社もありました。古地図を見ると、これらの神社はまるで名草山を守るかのように、山をぐるりと取り囲んでいます。
 
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